私が温泉に行き出した昭和30年頃、当時の道路は舗装されている部分が少なかった。
そんな中で、鹿角郡花輪町(現在の、鹿角市)から母に連れられて八幡平の温泉に通っていた。
唄の文句ではないが、まさに「バスは1日、1度来る」状態で、冬には2日に1度だったような記憶がある。
そんな中、小学生の私は、湯治用の機材(鍋・茶碗・食べ物等)を背負い春・夏・秋とアッチコッチに行った。
その頃の話を語らせて欲しい。
米代川のほとりにあった志張温泉。
今では、近代化されたホテルになっていると聞く。
当時は、米代川の遥か上を通るバス道からだいぶ歩いて辿りついた記憶がある。
ごたぶんに漏れず”掘建て小屋”に毛が生えた程度の宿であった。
しかし、硫黄分が少ないこの温泉は、他の湯治場に比べ過ごし易い所であった。
湯が2種類あった。
ひとつは、黒っぽい熱い湯。
もうひとつは、透明なぬるい湯であった。
湯壷も分かれており、隣り合わせに上下に設置されていた。
ぬるい湯壷は熱い湯壷の上部にあった。
ぬるい湯に浸かりながら、熱い湯にはザルに菜っ葉を入れ茹であがるのをまっている母がいた。
子供達は、ぬるい湯でいつまでも遊び、遊びすぎて叱られたものである。
私が「温泉って凄い」と子供ながらに思ったのは、この温泉である。
ある時、親父の軍用ナイフにて工作をしていて誤って自分の指を切ってしまった。
左手薬指の第一関節から上がブラブラ状態にまで切断してしまったのだ。
ブラブラの指をすかさず接着した状態で包帯し、父母は志張温泉に連れて行った。
ぬるい湯にて湯治すること、20日程度。私の切断された指は、見事に元通りになった。
その時の傷跡は残るが、立派にキーボードを叩いている。
その後の洪水で被害を受けた志張温泉は、熱い湯と温い湯を混ぜて営業していると聞く。
志張温泉の上にあったトロコ温泉。
アスピーテラインなんて立派な道路がなかった当時のバスの乗り換えポイントだった。
秋北バスの乗務員が詰める小さな事務所と、乗務員が入るためのものであろう、小屋の中に2丈程の温泉があった。
バスを停車させるための敷地の脇には、名前の起こりとなった「トロッコ」とレールが放置されていた。(トロッコは、当時のマッチの原料であった硫黄の運搬に使用されたとのことである)
殆どの路線バスは、ここが終点であり、ここから先の後生掛温泉・蒸の湯温泉・玉川温泉等もここから先は徒歩でいかなければならなかった。
志張温泉での湯治に飽きると、銭川温泉とかトロコ温泉まで徒歩で遊びに行ったものである。
現在、トロコ温泉から玉川温泉に向かうバス路線が、八幡平山頂方面に分かれる地点がある。
山頂方面からこのポイントに向かうと、T字路になっており、崖下は100Mはあると思われる。
私の従兄は、アスピーテラインの工事用車輌で山頂方面からこの崖を落ちるという事故に遭遇した。
当時16歳ほどであった従兄は、半身不随となったものの未だ健在で、北海道のリハビリセンタにいる。
小学校2年の春、父の転勤があり、鹿角郡花輪町から秋田市に転居することとなった。
それでも、季節毎の湯治通いが続き、当時40代の母に連れられ、秋田八幡平のあちこちの温泉に出向いていた。
湯治のお土産は、出掛けるのが困難であった父のために、温泉の湯を持って帰った。
勿論、入浴用とするほどの大量なものではない。
飲用として、鉄分を含んだ湯を運んで来るのだ。
運ぶと言っても、昭和30年代のこと、今時のポリ容器があるはずもない。
一升瓶に詰めてくるのだ。
母が4本位、子供の私が1本程度を、湯治用具を詰め込んだリュックの傍らに押し込んでの重労働であった。
しかし、旨いと言って呑む父の喜ぶ顔が嬉しくて、夏に春にと運んだものである。



