多我喋

     団塊親父、居酒屋呑兵店主の独り言(おがしゃべり)−This site is exclusively for those who can understand Japanese.


パンツ(ズロース)

昭和7年12月16日、東京は日本橋にあった「白木屋デパート」での火災が発生した。

これは、日本で初の高層建築物火災であり、当時の梯子消防車では高さが足りなかったため、救助に苦慮した。
そのため、道路の向かい側から綱渡りのごとくロープを渡して、これにぶら下がって渡るという非難方法がとられた。

当時の女性は和服姿が多く、現代で言うパンツの類を着用していなかった。
そのため、両手でロープにぶら下がった際、和服の裾が乱れることを気に掛けて手を離したために落下して死亡に至ったケースもあったとのことである。

それが引き金であったのかは不明確であるが、その頃からパンツ基、ズロースを履く習慣がはじまったというのが通説である。

そうはいうものの

爺が上京したころの芸者さん達は、パンツのラインが着物に写ることを嫌い、着用する人は皆無であった。
現代の女性は、そんなことは気にも掛けず基、ジーンズからパンツをはみ出し、尻まで見せる(あれは断じて見えるのではなく、見せている)姿で衆目の中を闊歩する。

曲の名は?

♪ 花売り娘が泣いていた 雨に打たれて散る花に

 くじけちゃ駄目と その肩を

そっとたたいた少年も 同じ銀座の靴磨き

 誰も知らない東京の

  誰も知らない物語



という歌詞の歌があった。
昭和43年頃、目黒の場末のバーにあるジュークボックスにある擦り切れたようなSPが繰り返しかかっていた。
今となっては、題名が思い出せない。
メロディーも鮮烈に覚えているのだが、題名が思い出せない。

歌詞の内容や、SPジャケットの古さから推察するには、昭和20年代後半から、せいぜい新しくても30年代早々であろう。

御存知の人がいらしたら、教えていただきたいものです。

昔の写真

昭和39年頃(たぶん)

ディープダンジョンかづのサイトで、花輪線について書いているのを見て、爺の古いアルバムを引っ張り出してみた。

昔の八幡平登山の際、各地を写した写真を見ていたら、以下の物を発見したのでお見せいたしたい。
なお、昔のアルバムに張ってあったものを、デジカメで複写したため、写りの悪いことは勘弁願いたい。

後生掛温泉

S39後生掛温泉


左側の上の建物が、現在のホテル部である。
その下で、一番左に移っている建物が、当時の湯治部受付棟である。
その下、真ん中付近の黒いトタン屋根が、湯治部1号館(?)である。
画面中央の緑の屋根が、大浴場であり、その左にちょっと出っ張った屋根が、当時できたばかりの女性専用の浴場である。
更に右側には、現在も流れる小川にボッチャンできる便所である。
また、ホテル部の(向かって)右側のデッパリは、ホテル部専用の浴場。
その右側が湯治部3号館(?)となる。(現在の、若草寮)
ちなみに、湯治部2号館(?)は、この写真には写っていないが、湯治部受付棟の左側となる。

当時、後生掛温泉への通行は、湯治部2号館(?)と、蒸し風呂棟の間を抜けて受付棟と湯治部1号館(?)の間に出た。
現在のホテル部に抜ける道路は、無かった。

当時の道の脇(山側)には、祠状になった部分に冷たい水が湧き出しており、沢蟹が採れた。
この湧き出し場所は、現在のホテル部に通じる道路工事でつぶれてしまったが、湧き水は今も昔の道に沿って流れていた。

S39後生掛温泉_蒸風呂


当時の蒸し風呂棟の内部である。
この「蒸し風呂棟」は、湯治部3号館(?)よりも、更に大沼よりの(当時の後生掛温泉への侵入路)の左側に有ったが、現在は痕跡する無い。
おそらく、現在のホテル部への新道工事の際、沢蟹が採れた湧き水と伴に撤去されたのであろう。

また、写真からも判るとおり、オナメ・モトメから峠の茶屋に抜ける道は、現在はホテル部の上から通るが、当時は、大浴場の前を通っていた。

この写真は、毛氈峠に抜ける登山道そばの小さな社付近から撮った。


玉川温泉

S39玉川温泉


こちらは、現在のたたずまいと、大差はない。
この写真は、どこかのパンフレットをパクっていた。

東北一週ヒッチハイク-昭和42年

登山に明け暮れた高校生活であった。

当時の東北の山、それも朝日連邦の縦断といえば、一度山中に入れば一週間は出てくることは無かった。
たまに人に会うと、御互いにこれから走破する道について情報交換をしながら、テントの中で一杯の懇親を深めたものである。
まだ高価であったトランジスターラジオで、翌日以降の天気予報を確認しながら、行動予定を作成した。

そんな山行を重ねる中、翌日などに道端に打たれた雉(所謂ウンコ)を発見すると、昨日一緒に酒を交わしたあいつだな〜等と思い出し、妙に懐かしさを覚えたものである。

そんな登山をしてはいたが、平地の移動はもっぱら国鉄を利用していた。
当時は、新幹線などあるハズも無く、特急を利用できる身分でもない学生は、一週間は乗車できる均一周遊券ばかりに乗っていた。

均一周遊券で乗車できる急行と普通列車を乗り継ぎ、夜になると長距離電車のルートに出て寝る。
そして、途中で同じルートを逆行し、朝になれば前日に乗車した駅に降り立つという旅である。
食事と言えば、最寄の公園あたりで飯盒炊爨である。

そんな貧乏旅行を送った高校生活の最後に、楽な旅をしたいと思い立ち、実行したのが東北一週のヒッチハイク旅行である。

けなげな貧乏高校生はあふれる同情の中で、色々な車に簡単に乗せてくれるであろうという淡い期待は見事にハズレであった。

殆どの車は、ヒッチハイカーなどは目にも留めてくれず、ただ行き過ぎる。
当然であろう。

出立した時は、登山用のキャラバン・シューズであったものが、蒸れを防止するために「農作業用の草鞋状のサンダル」に変わった。
パンツ等の代えが底を突き、洗濯の時間が無いため海水パンツに変わった。
フロに入る時間も金も無く、海水パンツのまま川で行水していた。

そんな格好で、ただひたすらに歩く日々であった。

浮浪児状態になれば、ますます乗せてやろうなどと思う車は減る一方であった。

そんな中でも、長距離のトラック・ドライバーは止まってくれることがあった。
そして、向かう方角が合えば、気持ち良く乗せてくれた。
また、乗せてくれた人の多くは、食事まで奢ってくれた。
特に記憶しているのは、夕方に乗せてくれた秋田県大館の電気屋さんが、自宅に泊めてくださったことである。
汚らしい風体の小僧に、入浴させてくれ、一泊2食付きの御接待をしてくださった。

最近のTVでは「田舎に泊まろう」という番組があるが、人情というものは嬉しいものである。

私が「他人様を親切にしたい」と思う気持ちは、この時の体験からでているものであると考える。


所持金3千円の旅行ではあったが、7日で完了できた東北一週ヒッチハイクである。

自転車旅行-昭和39年頃

初めて乗った自転車は、所謂「実用車」と呼ばれるものであった。

東京では、茅場町あたりの証券マンが未だに利用している。
当時は、自転車と言えば殆どが「実用車」であり、自動車が高価で、マイ・カー等というものを所有できるのは金持ちと呼ばれる人達であったころの、庶民の足であった。

その自転車ですら、一家に1台というわけにはいかず、町内に数台という時代であった。

幸い我が家は自転車を所有しており、もっぱら親父の通勤用であった。
小学校高学年になった頃、格好良く自転車に乗ることを夢見て、親父の指導の下に自転車に乗る練習を始めた。

実用車に子供が乗る場合、足が届かないため、三角乗りというスタイルでペダルを漕ぐのである。
自転車の脇にぶら下がるようにして、三角形の部分に片足を突っ込んでペダルを漕ぐ姿は、当然バランスが悪く、乗れるようになるまでは半ズボンから剥き出しの足を血だらけにして稽古したものである。
そんな中で、乗れるようになった時の嬉しさは、大変なものであった。

中学生になった頃は、生まれたときから自転車に乗っていたような顔をして地域を走り回ったものである。

中学の卒業記念に、どこかを旅行しようという話が持ち上がり、私の提案で八幡平に行くことになった。

昭和39年頃の秋田市内は、それなりにアスファルト舗装がされており、これから走破する道路もアスファルト舗装がされているものと思い込んでいた。
しかし、いざ自転車旅行を始めて判ったことは、殆どが泥濘の道路であることだった。
たまに舗装されていても、それは砂利舗装であり、自転車を楽しく走らせる状況とはほど遠いものであった。

目的地の八幡平は?といえば、なんだ坂!こんな坂!状態であった。

それでも、目的地にたどり着き、後生掛温泉までの山道を登りきって、疲れきった尻を浸したときは、まさに天国でした。

ちなみに、秋田市から後生掛温泉を2日間で走破しましたよ

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